■無色の混沌

何かとてもいいこと、核心をつくことを思いついたはずだったんだが、忘れてしまった。
変わりに巨匠の作品を掲載しとこう。


■■■■■■■■■■■■■小沢健二 「ドゥワチャライク」より■■■■■■■■■■■■■■

「無色の混沌」

僕の友人で、二人姉妹なのに、生まれてから一度も親に、「お姉ちゃん」と言われたことがないと
いう人がいる。二人とも「何々ちゃん」と名前を呼ばれるだけで、そうなると妹の方も「お姉ちゃ
ん」とは呼ばなくて、名前で呼び合うことになる。そう言えば彼女にはいわゆる「お姉さんらしい
感じ」はない。「お姉さん」「お兄ちゃん」と呼ばれ続けることは、その人の性格に影響するらし
い。「兄」とか「弟」とか言うのは、人間が持って生まれた資質ではなくて、社会的に規制された
結果、というか周囲がそれを強要しているのである。


人は分ける。上と下。右と左。陰と陽。善と悪。とにかく分けたがる。自分自身さえも分けてしま
う。不良か優等生か。運動神経がいいか悪いか。人間嫌いか社交家か。完全にどちらかである人な
んて絶対にいなくて、僕らは混然とした存在なのに、混然を受け入れるのってのは難しいから、め
んどくさがりの脳は、あるいは機能は、それ自体をあるがままに受け入れないで、白黒つけてゆく。
そうすると物事は、すごく簡単になるから。ボケとツッコミ。
 

懐かしいアズテック・カメラの、「ナイフ」という曲は、この世にはナイフがあって、物事を二つ
に分断しつづけている、ということを歌っている。


何もない空間である世界を、ナイフで切った、上と呼ばれる部分にあるとされていること。寛容、
優雅さ、などなど。僕は二人兄弟の弟だが、兄、正しくは「淳ちゃん」を。僕は「お兄ちゃん」と
呼んだりもしたので、その度に彼は、上の部分に属されていることであらねばならないと思ったか
も。僕は「淳ちゃん」をそう呼びながら、下の部分に属すことになっている、快活さ、自由さ、な
どなどを意識したのかも。えー、全く無意識に。


二人でいれば、そのまったくくだらないナイフは、混然として美しい世界をどんどん切ってよこす。
そして切り取られた世界は君の皿の上で、干からびて死んでしまって、勘定書きの上に、その名前
だけが残るのだ。「優雅さ ― 一つ。」そんな風に記されていいものは、この世の中には一つも
ない。カレーが、茹でたニンジンと、いためたタマネギと、御飯と、といった具合に出されるのと
同じだ。それには何の意味もない。


二人といえば、フリッパーズ・ギターの話もしよう。これも今のカレーの例えと同じこと。ナイフ
で分けてもなんの意味もない。二人で何となく決まっていたのは、リードボーカルは小山田が歌う。
歌詞とかタイトルは僕が作る。そのくらいのことで、あとは混然としていた。二人の共同の名前で
クレジットしたが、作曲では、僕が一人でしたのは、「フレンズ・アゲイン」「恋とマシンガン」
「カメラ!カメラ!カメラ!」「全ての言葉はさよなら」。小山田一人なのが、「ヘアカット100」
「偶然のナイフ・エッジ・カレス」「ビッグ・バッド・ビンゴ」「午前3時のオプ」「ラテンで
レッツ・ラブ」あと、「ラブ・トレイン」「パパ・ボーイ」ってのもあった。他の曲は全部二人で
何日も一緒に、どっちかの家で、夜中にコンビニ行ったりしながら、ラララーとか歌って作った。
青臭い話とかしながら‥。


で、二人でいれば混然としていられるのだが、人目にさらされるとそうは行かない。二人っていう
くらい、微妙な関係はない。それは他の誰かが、「あいつこう言ってたよ。」というだけで、余裕
でグラつく関係じゃないかと思う。そして二人でいる人たちにすかさず貼られるレッテルー「仲が
悪い」。オーケー。世の中のすべての二人組を代表して言っておこう。「お前らに言われる筋合い
はない。」以上。


二人、というのは微妙である。男同士の場合(女同士であったことがないから判らない)、あまり
話が通じてしまうというのも考えもので、微妙な気恥ずかしさみたいなものが発生したりする。本
当に親しい友だちとは、大勢でいる時には意外に話さなかったりして、他人を反射して話をしたり
して、二人でいると突然変に盛り上がったりして、そういうことは結構おもしろい。そういう友だ
ちが何人かいます。


男と女、となると、みんな御存知の微妙さで、ただの友達の女の子と、なぜか一緒のホテルの部屋
に泊まることになってしまった場合(状況はいくらでも考え得る)。恋人同士に、第三者がポンと
言った一言で、恋愛がガラガラと崩壊するさま(この間ポンと言ってしまった)。

A とB 二人がいる所に、CがAに、何かBの知らない重要なことを言う。Aは否定するが、Bの中に生じ
た疑念は消えない。Aが肯定しても、Bは「何で言わないんだよ」と思ったりする。それが良かったり
悪かったり。しかも二人という関係は、どちらかが回路を閉じれば、それで終りである。恋愛や結婚
が、三人でするものならば、また違うだろうに、三人一緒にベッドに入るのは、いまのところごく限
られた人々だけである。


認識ってのは、普通あまりにも二者択一で、ほんとくだらない。それは磁石の針のように、こらえき
れずにどちらかの極を向いてしまう。世界が半分ずつ見えなくなっていくだけなのに‥。マスメディ
アってのは、人間の脳の拡大図みたいなものだから、その中にいると、人間の癖が良く判る。


けどそういうこと全ては、どうでもいいことだ。「ラブリー」とか、「いちょう並木のセレナーデ」
といった歌を歌うことにくらべれば。これは、僕自身の話。


さて、それでは今度の「ある光」。「ある光」とは、「心の中にある光」。


光は全ての色を含んで未分化。無色の混沌。それはそれのみとして、分けられずにあるもの。切り分
けられていない、混然とした、美しく大きな力。それが人の心の中にある。


僕らの体はかつて星の一部だったと言う。それが結合して、体が在って、その心が通じ合ったりする
のは、あまりにも驚異的で、奇跡で、美しい。


そんな手紙をさっき書いたんだけど、そんなことを時には本当に思ったりします、僕は。
(映画見て、その気になっていた。)

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懐かしい人は懐かしい。
書いてる内容ではなく、表現の仕方がおそろしい。
オレはこんな風な文章が書きたいんだろう。
考えるように書くというか、文章にリズムを込めるというか。
あと、強い言葉を使わないところとか。
ラーメンズも言ってた。
「強い言葉はインパクトがあって簡単だけどすぐ飽きられる」
例えば、
「オマエのためになら死ねる!」
よりも
「朝食の後にはいつもりんごを剥いてあげるよ」
の方が味わい深いだろう?
だいぶ的外れでキモい方向に向かってしまいましたね。


パクリきりたい。
あと「グラシャーノ登場」は天才の狂気。
そのうちのせよう。
誰も待ってやしないのに。

LIFE

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